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日本初の世界遺産!
奈良県にあって、奈良公園中心の「古都奈良の文化財」とは一線を画す、飛鳥文化を今に伝える歴史的建造物のひとつが、世界最古の木造建築物である聖徳宗総本山 『法隆寺』です。
法隆寺と言えば、大仏で有名な「東大寺」同様、知らない方はいないというくらい有名なお寺ですが、「聖徳太子」を連想される方、正岡子規が詠んだあの有名な、「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」 の句を連想される方、はたまた幾度と無く登場した旧札の数々を連想される方・・・と、様々なのではないでしょうか。
別名「斑鳩寺」(いかるがのてら)とも言われる法隆寺は、1993年12月に、日本で最初に、「姫路城」などとともに「世界文化遺産」に登録されました。
日本において、世界遺産という言葉を、世に広めるキッカケにもなったお寺ではないでしょうか。
すっかり変わった「法隆寺」周辺!
そんな法隆寺が建つ、奈良県の斑鳩周辺は、のどかな農村地帯に、ポツンポツンと寺院が建っているようなところで、普通に田畑越しに五重塔や三重塔などが見え隠れし、タイムスリップしたかのような錯覚に陥る、実に不思議な地域です。
まだまだ伝統的な日本の風景が残された地区で、飛鳥地方とともに、奈良県の中でも、どこかホッとするような場所となっています。
そんな斑鳩地区の中心に位置するのが、この法隆寺です。
この法隆寺を再訪してみて、真っ先に驚かされたのが、どこか懐かしい景観が残る斑鳩地区にあって、驚くべき変貌を遂げた、近年の法隆寺周辺の道路や施設の整備状況です。
観光化と車社会による時代の流れや、世界遺産登録による文化財保護と環境整備の問題等々、いろんな要素があるのでしょうが、とにかくその変わり様には驚かされます。
門前の飲食店「かどや」の強制撤去問題などは記憶に新しいものですが、昔の法隆寺を知っておられる方は、他の寺院とは全く異なるほど整備の行き届いた現在のお寺の姿に、びっくりされるのではないでしょうか。
やはり再建か?「法隆寺」
法隆寺の建立時期については、確かな証はないものの、一般的には、今から1400年ほど遡った607年に造られたとされています。
「用明天皇」が願いつつも果たせなかった寺院建立の志を、後の「推古天皇」と「聖徳太子」がくみ取り造り上げたとされるのが、この法隆寺の起源とされています。
建立の時期については、薬師如来像の光背(こうはい)に書かれた一文や、747年に記されたとされる、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」(ほうりゅうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)などにより、いろいろと推察されています。
現存する法隆寺建築物の造営時期については、古くからいろんな説や論争が巻き起こっており、未だ謎が多いことは、みなさんご存知のことと思います。
そんな中、「日本書紀」に登場する、670年に一屋も余すことなく法隆寺が焼失した・・・とされる記述より、再建説が強く唱えられてきましたが、それを裏付けるように、近年の科学技術の進歩により、法隆寺伽藍の仕様部材の伐採時期の調査などにより、7世紀後半に再建されたという説が有力となってきました。
しかしながら、一部に7世紀前半の部材も混ざっているということから、法隆寺伽藍については、未だ謎が多く残されています。
東西に分かれる「法隆寺」伽藍
法隆寺の境内は、およそ187,000u(56,567坪)と言われ、ちょうど東京ドーム4個分の大きさに匹敵します。
現在の法隆寺は、東西に広がる大きなお寺となっており、「五重塔」や「金堂」を中心とした「西院伽藍」(さいいんがらん)と、半跏思惟像(はんかしゆいぞう)で有名な「中宮寺」(ちゅうぐうじ)に隣接し、聖徳太子を偲び造られたとされる「夢殿」を中心とした「東院伽藍」(とういんがらん)とに別れます。
そんな法隆寺を訪れて、最初にくぐるのが、立ち退き騒動の舞台ともなった「南大門」で、室町時代の1438年に再建された門と言われています。
南大門を抜けて、左右にいくつかの寺院を見つつ参道を進むと、東西に走る大きな通りに出ます。
この参道に立ち、正面に見えるのが、西院伽藍で、右手東側の参道の先に位置するのが、夢殿がある東院伽藍となります。
ちょっと違うぞ!「法隆寺」中門と五重塔
西院伽藍は、左手にある入口から中に入り廻廊を進んで行くと、西に「五重塔」、東に「金堂」、北に「大講堂」という伽藍配置が見てとれます。
この法隆寺式の伽藍配置は、日本独特のものであり、この法隆寺以降建立された寺院の多くは、「四天王寺」や「飛鳥寺」などの伽藍配置とは異なり、塔が伽藍の中心から外れていったとされています。
そんな伽藍配置を眺めていると、ふと背後の「中門」(ちゅうもん)の不自然さに気付きます。
中門を通らずに中に入ったことや、参道から見た時には、五重塔ばかりに目がいっていたこともあり、なかなか気づかなかったのですが、この法隆寺の中門は、通常三間、五間と、真ん中は通り道となっている門が多い中で、四間と偶数間で、真ん中に柱が建つ造りとなっています。
他にどこの寺院がそうだったか・・・と、ちょっと考えてしまうくらい特徴的な門となっています。
再び正面に目を向けると、今度は、日本最古の五重塔であり、国宝にもなっている、壇上31.5mの五重塔の違いに気付きます。
この五重塔も法隆寺ならでは・・・と言える五重塔で、5層の屋根が、上にいけばいくほど、極端に小さくなっていくのがわかります。
一番上の屋根の一辺は、一番下の屋根の半分とはいかないまでも、かなり短いものとなっており、これまた特徴的なことに気付きます。
全国各地、いろんなお寺を訪れては、何の気なしに五重塔を見上げていましたが、そんな違いがあったとは・・・、と法隆寺を訪れてみて、はじめてそんな視点で五重塔を見るようになりました。
修学旅行では、全く気付くことがなかった数々の違いに、時を超え改めて気付いて行くことも、旅の楽しのひとつです。
謎の彫刻師 止利仏師!
そんな五重塔と並び、その東側に建っているのが、五重塔同様国宝になっている、二層入母屋造りで、2階の手すり形状が特徴的な飛鳥様式を見せる金堂です。
この金堂には、法隆寺のご本尊である、「釈迦三尊像」があります。
623年に「止利仏師」(とりぶっし)がつくったとされるこの釈迦三尊像ですが、その大きさは意外と小さく、高さ90cm前後と、ちょっと小柄な釈迦三尊像となっています。
また、「薬師如来坐像」、「阿弥陀如来坐像」なども安置されており、それらを守護すべく、最古の「四天王像」が周りを囲っています。
止利仏師は、「鞍作止利」「鞍作鳥」(くらつくりのとり)とも言われ、これまた謎多き人物となっており、この釈迦三尊像も、彼が直接彫ったのかどうか・・・と、論議をよんでいます。
自ら手がけたのか、プロデュースのみを行ったのか・・・、未だ謎は解けていません。
また、1949年に、模写中に焼損してしまったことで有名な、世界的な仏教絵画である「法隆寺壁画」も、この金堂内にありました。
残念ながら現在は、模写されたパネルがはめ込まれています。
秘仏!救世観音像
夢殿は、西院伽藍から「大宝蔵院」、「大宝蔵殿」などを抜け、参道を東へ進んだところにあります。
法隆寺という同じお寺だということを知らずに訪れたならば、全く別のお寺と思ってしまうほど、西院伽藍とは距離感もあり、また全く異なる雰囲気を漂わせているのが、この東院伽藍です。
というのも、それもそのはずで、この夢殿は、法隆寺建立につくした聖徳太子その人自身を偲び、後の739年に、「斑鳩宮」跡に造られた「上宮王院」の一部だったからです。
五重塔や金堂などの飛鳥建築物とは異なり、夢殿は、天平文化の時流にのったつくりをしており、夢殿内部には、聖徳太子の等身の「秘仏」とされる、高さ179.9cmの「救世観音像」(くぜかんのんぞう)や、その背後にある「聖観音立像」など、聖徳太子の供養の為の仏像が、数多く収められています。
中でも、国宝である救世観音像は、明治時代に、あの有名な「アーネスト・フェノロサ」によって、はじめて布が解かれ姿を見せたとされる神秘的な観音像で、現在でも特定期間しか、そのお姿を拝見することが出来ない、秘仏となっています。
「岡倉天心」らとともに法隆寺を訪れたフェノロサが、このご禁制の布を解いていった時、聖徳太子の祟りを恐れた法隆寺の僧侶達は、みな逃げ出した・・・という伝説まで残っているこの観音像・・・、「釈迦三尊像」、八頭身のすらりとした「百済観音像」とともに、法隆寺を代表する仏像となっています。
日本最初の世界文化遺産、世界最古の木造建築物、そして日本史上、最も有名な偉人のひとりである聖徳太子ゆかりのお寺である、奈良
法隆寺。
修学旅行の思い出しか無い方は、是非とも改めて訪れてみてください。
| ■ 法隆寺 〜 星★聖 の ひとこと 〜 |
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いまだに謎多き「法隆寺」! そして誰もが知っている「法隆寺」!
だからこそ、もう一度じっくりと観てみませんか? |
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