古都奈良の文化財
奈良の都 平城京の東にあって、『古都奈良の文化財』として、興福寺や春日大社・薬師寺・唐招提寺・元興寺・平城宮跡などとともに、1998年に世界文化遺産に登録されたのが、ここ 「東大寺」です。野生のシカと鹿せんべいで知られる奈良公園に位置し、修学旅行生や国内外の多くの観光客で常に賑わう、奈良を代表する観光地となっています。
近くには、校倉造の高床式倉庫で有名な、もともと東大寺の倉庫であった「正倉院」や「興福寺」「奈良国立博物館」「奈良県立美術館」などがあります。
奈良の文化を今に伝える多くの寺社が集まり、古都奈良の都の香りが今も漂うこの土地は、歴史好きならずとも興味がわく、ロマン溢れる一大文化圏となっています。
都の東の大寺だから東大寺
東大寺の起こりは、728年に時の聖武天皇が、皇太子であった基親王の菩提を弔うために建てた、「金鐘山寺」が始まりと言われています。その後、741年に『国分寺・国分尼寺建立の詔』が発せられたのを期に、大和国分寺として「金光明寺」と改称されました。
743年に大仏を造るべく『盧舎那大仏造立の詔』が発せられると、745年より大仏の造営が始まり749年に完成、752年4月開眼供養会が営まれました。
当初大仏は、「紫香楽宮」で造立すべく準備が進められていたようですが、地震・火災などの天変地異が起こり都が平城京に移ったのを期に、今の奈良東大寺の地に大仏造立も変更となりました。そしてその頃から、平城京の都の東に建つ大寺ということで、"東の大寺"と呼ばれるようになり、やがて東大寺になったと言われています。
実は日本一じゃない大仏!
東大寺は、華厳宗の大本山であり、盧舎那仏をご本尊とする大規模な伽藍が特徴です。
この華厳宗の教主である盧舎那仏は法身仏であり、真の教えを仏の姿として表現したものです。釈迦如来がこの世で説いた教えそのものがカタチとなったものであり、宇宙から太陽のように世界を照らし人々を導く仏として広く一般に信仰されてきました。
奈良の大仏の造営には、当時の日本の人口の半数以上である260万人が関わったとされており、実に壮大な国家事業であったことが、当時の文献からうかがい知れます。
現在の大仏は、752年4月の開眼供養会以来、855年に地震にて大仏の首がもげるという惨事があり、その後も度重なる兵火に見舞われたため、腰からお尻にかけてが鎌倉時代、両手から上半身が安土桃山時代、頭部が江戸時代に修復されたものとなっています。1000年以上の時を経ているわけですから、その間の歴史的背景を考えれば当たり前のこととは言え、パッと見ではなんらそのようなことを感じさせない修復技術のすばらしさもまた特筆ものです。
大仏の高さは14.98mで、中指の長さが1.08m、耳の丈が2.54mという、遠くから眺めるとよくわかりませんが、実に巨大なものとなっています。毎年夏のお盆前に行われる、大仏様のほこりを払う行事である「お身ぬぐい」のニュースを見て、改めて大仏の大きさを感じる方も多いかと思いますが、実はこの東大寺の大仏は、日本一の大きさというわけではありません。
あまりにも有名で、多くの方が実際に目にしている大仏ということから勘違いされている方も多いようですが、日本一の大仏は茨城県の「牛久大仏」で、高さ120mと桁違いのバカでかさとなっています。しかしながら立像のため、東大寺のように座っている大仏となると、千葉県の鋸山にある「日本寺」の大仏が、石仏ながら高さ31.05mで一番大きな大仏となっています。
天竺様の三代目大仏殿
そんな東大寺の大仏を、雨風から守っているのが「金堂」にあたる大仏殿で、形を変えながら現在のもので三代目の大仏殿となっています。奈良時代の創建時の大仏殿は、高さ約40m(46m説もあり)で、和様だったと言われています。しかしながら1180年に、平重衡の軍勢による「南都焼討」にあい、大仏殿をはじめとした多くの伽藍が焼失してしまいました。
ニ代目の大仏殿は、鎌倉時代に入った1195年に、重源らにより築かれました。その大きさは創建時のものとほぼ同じだったとみられていますが、この大仏殿の様式は和様ではなく今と同じ天竺様であったと言われています。しかしながらまたもや、1567年の三好氏と松永氏の争いである「東大寺大仏殿の戦い」にて、大仏殿を含む多くの伽藍が焼失してしまいました。ちなみに、かつては松永久秀の放火による悪行とされていましたが、現在では戦中の不慮の失火という見方が強くなっています。
それ以後しばらく大仏殿は再建されなかったのですが、江戸時代に入った1709年に、公慶らによって再度建立され、それが三代目となる現在の大仏殿となっています。二代目と同じ天竺様の現在の大仏殿は、幅が2/3に縮小されたものの、間口57.5m 奥行50.5m 高さ49.1m(現状 間口57.01m 奥行50.48m 高さ48.74mになっているとも…)と、明治と昭和に二度の大掛かりな修理が施されながら現在に至っています。
2/3に縮小されてこの大きさですので、いかに当時の日本の木造建築技術が優れていたか改めて驚かされますが、実は木造建造物としては今尚世界最大級の規模を誇るものの、前述の通り世界一の木造建築物でも日本一の木造建築物でもありません。
日本一の木造建築物は、秋田県にある「大館樹海ドーム」で、178m×157mという卵型のドーム形状で、その高さは52mあります。世界一の木造建築物は、アメリカのオレゴン州にある旧飛行船格納庫というのが専門家の見解で、その大きさは間口90.2m 奥行304.8m 高さ51.8mと、明らかに東大寺の大仏殿より大きいようです。最近では、スペインの「メトロポール・パラソル」を、世界一の木造建築物として挙げる人もいます。
また大仏殿としても、福井県にある「清大寺」の大仏殿が高さ52.12mとなっており、少なくとも東大寺の大仏殿よりは大きいようです。ただし木造建築の大仏殿ということであれば、東大寺が世界一となるようです。
人だかりのそのワケは?
そんな東大寺大仏殿の中に、ちょっと変わったものがあります。大仏殿に入ると、大仏さまの背後の一角に人だかりが出来ていることに気付きます。
時折り子供達の歓声や、大きな拍手が沸き起こるこの人の輪の中心には、この大仏殿を支える柱の一つがあり、その下方に1つの穴が開いています。
昔からこの大仏殿の柱に開いた穴をくぐると、賢くなれるとか厄除けになるなどの言い伝えがあり、次から次にチャレンジする人達や、それを見守る人々で周囲が賑わいます。
一説によると、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴だとされており、この穴はくぐることで目から鼻に抜けるということになり、"機転が利く賢い子に育つ!"と言われています。またこの柱が大仏殿の鬼門の方角に位置することから、この穴で悪い気を抜いているとも言われています。
いずれにせよ悪いことではなさそうなので、通り抜けられる自信のある方はチャレンジしてみてください。くれぐれも途中ではまらないように、勢いだけで乗せられてやらないように気をつけて下さい!
重厚感のある国宝 南大門
東大寺は大仏があまりにも有名なため、すっかり影が薄くなってしまっていますが、忘れてならないのが東大寺の正門であり、国宝にもなっている「南大門」です。重厚感あふれる造りで、実にどっしりとした東大寺にふさわしい門構えとなっています。
重層入母屋造りで天竺様式のこの東大寺南大門は、高さが25.46mあり、日本一の三門か!?と思いきや、これまた「清大寺」の大門が高さ29.1mあり日本一のようです。ちなみに東本願寺の御影堂門も26.89mあり、立派な三門で知られる知恩院は24m、南禅寺は22mとなっています。
大仏殿が三代目なのに対し、見るからに歴史を感じさせるこの南大門は、南都焼討後の鎌倉時代の再建時のものであり、二代目の大仏殿の大きさや仕様に合わせ造られたであろうこの門の眺めは、先代の大仏殿の大きさを連想させます。
そしてこの東大寺南大門には、歴史の教科書でお馴染みの、あの運慶・快慶らによる作とされる、国宝の「金剛力士像」が、左右に納められています。一見同じように見える仁王像ですが、向かって左の阿形は口を大きく開けており、右の吽形は口を閉じています。
この阿形・吽形は2体とも高さ8.4mという大きさで、これだけの力作でありながら同時進行でわずか69日で造られたと言われています。そして1988年に初めて解体修理が行われた時に、今までの歴史を覆す発見があり、阿形のみ運慶・快慶らの作で、吽形は、定覚・湛慶らの作だということがわかりました。それまでは、運慶・快慶がそれぞれ一体づつ指揮して造ったという説が一般的でしたし、私も授業でそう習っていたので驚きました。
しかしながら一体を十数人がかりで、69日で造りあげたということに変わりはなく、その仕事の早さと、見れば見る程すばらしいこの出来栄えには驚くばかりです。そこらのお堂に納めるものならまだしも、日本の中心であった都の、しかも日本一になる東大寺南大門に納める仏像を、天下に名だたる仏師達が妥協してつくりあげたとは到底考えにくく、運慶・快慶らの技量の程に感服するしだいです。
特に下から見上げることを前提に、視線の角度まで計算して、顔や上半身を大きく短足の五等身としているところなど、さすがとしか言えません。是非ともその点にも注目して、金剛力士像を見上げてみてください!
日本三戒壇
東大寺には、他にも有名な建築物がいくつかありますが、その1つが、「戒壇堂」です。戒壇堂とは、出家して僧侶となるものが、僧として守るべき戒律を授けられる場所です。
東大寺の戒壇堂は、あの遣唐使や唐招提寺で有名な、鑑真和上を招いて、755年に創建されたもので、奈良時代の最高傑作と言われる、塑像の国宝「四天王立像」も納められています。
正しい仏法を日本に説くべく日本に渡ることを決意するも、10年間に5回も渡航に失敗し、失明までしてしまった鑑真のお話は有名ですが、その鑑真は、この東大寺の戒壇堂をはじめ「日本三戒壇」と言われる下野の「薬師寺戒壇院」と、太宰府の「観世音寺戒壇院」も創建されました。
この他、東大寺には、「修二会」のお水取りで有名な「二月堂」や、天平仏の宝庫と言われる「法華堂(三月堂)」、良弁の肖像を安置する「開山堂」、日本三名鐘と言われる「鐘楼」、二度の戦火を逃れ創建時の姿を留める「転害門」等々、たくさんの建築物があります。また現在は宮内庁が管理していますが、1875年までは東大寺の倉庫だった「正倉院」もあり、2011年には「東大寺ミュージアム」も境内に造られています。
今まで一度も奈良の都に足を踏み入れたことが無い方はもちろんのこと、修学旅行以来久しく東大寺を訪れていないという方も、世界遺産である古都奈良の文化財に触れるべく、日本一のスケールを誇るお寺である奈良東大寺へ、是非足を運んでみてください。テレビや雑誌では、この大きさは感じられませんよ!