滋賀県旅行観光ガイド『義仲寺
義仲寺 Vol . 103
義仲寺
(滋賀県 大津市)
‐ Shiga ‐
滋賀
Presented By 星★聖
義仲寺(滋賀 大津)
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義仲寺の評価
義仲寺の評価
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■ 義仲寺とは?

 琵琶湖畔に程近い滋賀県大津市にある、山号を「朝日山」と称す、木彫りの聖観音菩薩を安置するお寺で、木曾義仲や松尾芭蕉の墓があることで知られるお寺。
 1184年に、宇治川の戦いで敗れこの地で果てた義仲の菩提を弔うべく、側室の巴御前が尼僧となりここに草庵を設け供養したのが始まりで、その後300年の時を経た1553年に、当時の近江の守護職にあった佐々木高頼が、荒廃した寺の姿を目にし、同じ源氏の流れを汲む者としてひどく心を痛め再興したと伝わる寺。
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紅葉時が一番風流
お世辞にも広くはない境内だが隈なく見よう!本当に見所がギッシリだ!
木曾義仲と松尾芭蕉という、一見繋がらない二人の人物像に迫りたい!
義仲という人物の一生を理解しないと、この寺の本当の姿は見えてこない!
~ 義仲寺 編 ~ 温泉マイスター 星★聖(ほし たかし)
義仲寺の見所
義仲寺山門と巴地蔵堂 見所多き境内 翁堂
義仲寺山門と巴地蔵堂 見所多き境内 翁堂
この規模で門前から見所が多いお寺も珍しい。右手の巴地蔵堂は、義仲公の供養に一生を捧げた巴御前の冥福を祈るお堂で、石彫りの地蔵尊が安置されている。 お世辞にも広いとは言えないが、お堂や句碑などがギッシリ詰まった見所多き境内。毎年1月に義仲忌、5月に奉扇会、10月には時雨忌が執り行われる。 京都金福寺の芭蕉庵や、伊賀上野の蓑虫庵などに通ずる、芭蕉らしい匂いのする翁堂。お堂を取り囲むように、四季を感じさせる草木が植えられている。
芭蕉翁坐像 三十六俳人の画像 佐渡の赤石
芭蕉翁坐像 三十六俳人の画像 佐渡の赤石
正面に芭蕉の坐像があり、壁上には正風宗師の額がある。左には蕉門十哲の丈艸居士(内藤丈草)の木像が、右には同じく蕉門十哲の向井去来の木像がある。 翁堂の天井には、伊藤若冲の筆による「四季花卉図」15面があり、左右の壁上には、三十六俳人の画像が掲げられている。 一般には「赤玉石」として知られ、佐渡市の赤玉地区より産出される石。日本三大名石のひとつで、非常に硬く磨くと光沢とともに不思議な赤い色彩を放つ。
木曾塚(義仲公の墓) 巴塚 芭蕉翁の墓
木曾塚(義仲公の墓) 巴塚 芭蕉翁の墓
自らを朝日将軍と名乗り、1184年に宇治川の戦いにて頼朝軍に破れ、1月20日にこの地で果てた木曾義仲の墓。芭蕉により「木曾塚」と唱えられた。 男勝りの武勇で知られ、常に木曾義仲に付き従ったとされる側室の巴御前の塚。巴御前の死後、この草庵は「無名庵」「巴寺」などと呼ばれるようになった。 大阪の花屋仁右衛門宅で病に倒れ、1694年10月12日、「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」の辞世の句を残し永眠の床についた芭蕉の墓。享年51歳だった。
木曾八幡社 無名庵 古井戸と大芭蕉
木曾八幡社 無名庵 古井戸と大芭蕉
1976年に、社殿と鳥居を造立した、義仲寺の鎮守として古図にも登場する社。八幡社は、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神として崇められていた。 芭蕉が幾度となく訪れ滞在した芭蕉ゆかりの庵で、ここを訪ねた弟子の島崎又玄が、あの有名な「木曾殿と背中合わせの寒さかな」の句を残している。 山門を入ってすぐ左手に古井戸があり、その横には大芭蕉が大きな葉を広げている。伊賀上野の芭蕉生家の「釣月軒」の大芭蕉を思い出した。
義仲寺の地図
基本情報
■名称:義仲寺
■読み方:ぎちゅうじ(よしなかでら)
■所在地:滋賀県大津市馬場1-5-12 
■問合せ:077-523-2811
観光情報
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星★聖の名勝・史跡探訪記 『義仲寺』 編

知る人ぞ知る、そのお寺の名は?

琵琶湖湖畔の滋賀県は大津市の街中の一角に、ひっそりと佇むひとつのお寺があります。

立派なお堂があるわけでもなく、国宝級の仏像が眠るわけでもないこのお寺。

まして五重塔や広い境内に美しい伽藍配置を見せるなどということもなく、特に春の桜や秋の紅葉が有名というわけでもありません。

およそお寺というイメージからは程遠い、通りからは、一見ただの民家のようにさえ見える素朴な佇まいをみせるこのお寺こそ、知る人ぞ知る史跡、『義仲寺』 (ぎちゅうじ)です。

一般の方にはなかなか馴染みの薄いお寺の名前かもしれませんが、このお寺の境内には、日本の歴史のひのき舞台にも登場した、いくつかの伝説が静かに眠っています。

お世辞にも決して広いとはいえない境内いっぱいに、まるで箱庭のごとく、さまざまな時代を生き抜いた今も語り継がれる歴史上の人物の足跡が、ぎっしりと詰め込まれています。


街に埋もれていった、義仲寺!

義仲寺は、読めない駅名でも有名な、JR東海道線の膳所駅(ぜぜえき)から、ほんの400mくらいの旧東海道沿いに、街に埋もれるようにひっそりと建っています。

かつて、大津駅、馬場駅などの名称で親しまれていたこの膳所駅周辺は、時代とともに巨大なショッピングセンターが建ち並ぶ、人通りの絶えない大津でも有数の市街地と姿を変えました。

古くは、粟津ヶ原(あわづがはら)と呼ばれ、琵琶湖に面した景勝地でもあったこの義仲寺一帯ですが、現在は湖面からは遠ざかり、周囲に建物が建ち並んだこともあり、直接琵琶湖を望むことが出来なくなり、市街地開発の中、いつしか埋もれるていくこととなりました。

そんな義仲寺の縁起は、その名が示すとおり、源平の合戦の最中、彗星のごとく現れ、彗星のごとく歴史の舞台から去っていった一人の人物、一般には広く、木曾義仲の名で知られている、源義仲(みなもとのよしなか)公からきています。

そして、この名を冠していることが、このお寺の歴史そのものを物語っています。


彗星のごとく時代を駆け抜けた、木曾義仲!

木曾義仲は、自らを「朝日将軍」と名乗り、天下にその名を知らしめました。

源平合戦の折、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)に先んじて入京し、力づくで「征夷大将軍」の地位を勝ち取り、自らが源氏の大将として振舞ったことにより、やがて源頼朝率いる鎌倉方と、骨肉の争いを演じることとなりました。

京で育った頼朝に対し、田舎育ちで教養や公家のしきたりに暗かった木曾義仲は、京の治安維持に失敗したこともあり、やがて朝廷からも見放され追い込まれていきました。

そして迎えた1184年、木曾義仲は、「宇治川の戦い」にて、範頼(のりより)・義経(よしつね)率いる頼朝軍に破れたのをキッカケに失墜し、1月20日、この粟津ヶ原の地にて果てました。

彗星のごとく時代を駆け抜けた義仲は、この地にて31年の壮絶な生涯を閉じることとなりました。


義仲の菩提を弔う尼僧とは?

その後、いつしかひとりの尼僧が、「徳音院義山宣公」と名を変えた、義仲の菩提を弔って通うようになり、やがて近くに草庵を設け供養するまでとなりました。

この尼僧こそ、男勝りの武勇で知られ、常に義仲に付き従った側室巴御前(ともえごぜん)だったとされています。

巴御前の死後、この草庵は「無名庵」「巴寺」などと呼ばれていきましたが、義仲公より「木曾寺」、そして「義仲寺」とも言われるようになりました。

その後、300年の時が流れ、室町時代末期1553年、当時近江の守護職にあった「佐々木高頼」が、「石山寺」参詣の折、荒廃したこの義仲寺を目にし、同じ源氏の流れを汲む者として、ひどく心を痛めたといいます。

そして、この寺は、そんな佐々木氏の手によって再興したと伝えられています。


木曾殿と 背中合わせの 寒さかな

あまりにも早く、あまりにも華々しく散ったこの義仲の人生でしたが、義仲の死後500年近くの年月が経った頃、ひとりの人物が、この義仲の生き様につよく共感を覚えていました。

その人物こそ、日本人なら知らない人はいないと言われるくらい有名な俳人、松尾芭蕉でした。

奥の細道」の旅路を終えた芭蕉は、上方滞在中や、故郷伊賀上野への旅路の折に、幾たびかこの地を訪れ、義仲寺の庵にて、身近なものと楽しい時を過ごしたとされています。

そんな芭蕉でしたが、1694年10月12日16時頃、大阪の花屋仁右衛門宅で病に倒れ、辞世の句、「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」を残し、永眠の床につきました。

かねがね自分が亡き後は、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と言い渡してあったその言葉通りに、芭蕉の亡骸は、向井去来(むかいきょらい)や宝井其角(たからいきかく)ら門人10人の手により、近江へと運ばれ、この義仲寺にて葬儀埋葬されました。

芭蕉がどのような想いで、この義仲という人物に共感していったのかは?ですが、日本中を歩き回り、様々な史跡や歴史上の人物に触れていった芭蕉が、この木曾義仲という人物に心を寄せ、この地を選んだということは、とても興味深く思えます。

生前に、庵を訪ねた門人島崎又玄(しまざきゆうげん)が詠んだ、「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」の一句が、この芭蕉の想いを物語っているようにも思えます。


芭蕉への想い・・

わたしは芭蕉という人物について、特別明るいわけではありません。

しかしながら、東北を中心に、旅先で出会った芭蕉の足跡の数々に触れる度に、いつしか日本を代表するこの俳人が気になるようになりました。

奥の細道を巡った時にも、芭蕉の故郷、伊賀の地を訪れ、「俳聖殿」(はいせいでん)や「釣月軒」、「蓑虫庵」(みのむしあん)などを訪れた際にも、同じような想いが巡りました。

そして、この義仲寺で、芭蕉の墓を目にして、ますますこの芭蕉という人物が気になってきました。

いつも質素な装いで、日の当たる場所にありながら自らはちょっと影に隠れた存在となるこの人物が、なぜこの地を選び、この地で永遠の眠りについたのか・・・。

この答えは、今の自分にはわかりません。

この先も、未来永劫その答えは導き出せないのかもしれません。

しかしながら、何年か先、またいつか、この義仲寺を訪れ、芭蕉翁の墓を目の当たりにした時に、再び問いかけてみたいと思います。


箱庭のような楽しさ・・

この義仲寺の境内には、「木曾塚(義仲公の墓)」、「巴塚」、「芭蕉翁の墓」の他に、本堂となる「朝日堂」や芭蕉の宿舎でもあった「無名庵」、芭蕉を奉る「翁堂」、「粟津文庫」、「木曾八幡社」、そして、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑など、たくさんの見所があります。

また、山門右手の旧東海道沿いには、地元の方々に広く慕われている、巴御前を追福する、「巴地蔵堂」があります。

冒頭でも申し上げましたように、お世辞にも広いとはいえないこの義仲寺境内に、びっしりと詰め込まれた感のあるこれらの史跡の数々を、こまめに見てまわるこの感覚は、まるで箱庭を楽しむかのような趣で、他のお寺では、なかなか味わえないような、そんな楽しさがあります。

そんな義仲寺ですが、毎年、1月には「義仲忌」が、5月には、芭蕉の像に白扇を捧げる「奉扇会」が、10月には、芭蕉を偲ぶ「時雨忌」が執り行われます。

この義仲寺は、旅行ガイドに華々しく登場したり、観光客でごった返すような場所ではありません。

旅行の楽しみでもある視覚に訴えるような光景とは、およそこの義仲寺は程遠い存在でもあります。

しかしながら、テレビや書物で木曾義仲の活躍を目にする時、旅先で見つけた芭蕉の足跡に出会う時、この義仲寺のことが思い出されます。

志半ばで、非業の死を遂げた木曾義仲、同じく志半ばで、旅路で病に倒れた松尾芭蕉、そんな歴史上有名な二人の人物の生き様に、少しでも迫りたい・・・、そう思う方だけに、この義仲寺はおすすめします。

自宅の庭の草木を、ひとつひとつゆっくりと見てまわる様な、そんな面持ちで、境内を巡ってみてください。

きっと何か、心に通じるものがあるはずですよ。
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