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広島といえば・・・
広島といえば、昔は「原爆」という答えが、圧倒的に多かったものですが、第二次世界大戦や原爆投下の出来事は、遠い過去のものとして風化してきており、昭和の時代とともに、年々影が薄くなってきました。
そんな第二次世界大戦の、そして原爆投下という悲惨な出来事の象徴でもあり、また、平和な世の中を願う心の原点にもなっているのが、1996年に、「世界文化遺産」に登録された、『原爆ドーム』です。
最近では、広島といえば、「お好み焼き」という答えが多くなり、この原爆ドームが何なのか?原爆ドームの存在すら知らない子供達も増えてきています。
戦争や爆弾は、ゲームの世界と化してきており、このような時代の流れは、平和な毎日が送れる、今日の日本の社会の良くもあり、ちょっと複雑なところ・・・でもあります。
T字型の相生橋が・・・
原爆ドームは、広島市の「元安川」沿いの、「相生橋」のそばにあります。
近くには、あの「平和記念公園」や、「広島平和記念資料館」、「広島市民球場」などがあります。
この原爆ドームのそばにある相生橋は、元安川と本川(旧太田川)の分岐地点にかかる橋で、「T字型」をしていたことから、原爆の投下目標にされたと言われています。
現在では、市電が走り、多くの車や人々が行き交う交通の要所となっていますが、この相生橋により、原爆投下のボタンが押されてしまいました。
「原爆ドーム」の元の名は?
今でこそ、原爆ドームという名で広く知られていますが、もちろん元々そういう名前であったわけではありません。
 
原爆投下後の戦後の広島の復興の中で、取り残された感のあったこの戦争の傷跡とも言えるこの建物が、原爆投下の象徴として、いつしかその形状とともに、原爆ドームと言われるようになったものでした。
元々原爆ドームは、チェコの建築家、「ヤン・レツル」により設計された、地上5階 地下1階の建物で、 建築面積1,023u(309坪)、延床面積3,069u(928坪)と、とても大きな建築物でした。
 
1915年8月に、原爆ドームは、「広島物産陳列館」としてオープンし、1921年に「広島県商品陳列所」と改称、1933年には、さらに「広島県産業奨励館」とその名をかえました。
そして戦時中の1944年に、本来の物産品の販売促進業務は中止され、内務省の「中国四国土木出張所」や「日本木材」の広島支社などの事務所として使用されることとなりました。
煌びやかだった、往時の「原爆ドーム」
この原爆ドームは、当時としては非常にモダンな建物であり、特徴的なてっぺんのドームは、実にグリーン色をしており、中には吹き抜けや、今もゆがんで残る螺旋階段があった建物でした。
南側には、洋式の庭園が広がり、噴水や樹木が不思議な空間をつくりあげていたと言われています。
また、今のモノトーンで悲惨で暗いイメージの原爆ドームからは全く想像できないことですが、夜間にはライトアップが施され、イルミネーションが大変美しく輝いていた時代があった建物で、広島の人々に親しまれていた建物でした。
わたしが初めてこの原爆ドームを目にしたのは、高校の修学旅行の時でした。
その時は、この原爆ドームを見て、ただその姿に「戦争」という史実を確認しただけでした。
残された今の原爆ドームの姿しか知らないわたしは、建物の大きさも、今ある姿を基準に想像するだけでした。
戦争の遺物が保存され残っている・・・という、ただそれだけでした。
後に、この広島を再訪し、この原爆ドームを目の当たりにした時、古い資料の写真から、往時の原爆ドームの姿を知りました。
この原爆ドームは、その原型を知った時、その衝撃が倍増するように思えます。
往時の姿がイメージできた時、破壊された原爆ドームの姿は、「被爆直後の焼け野原にたたずむ原爆ドームの写真」のような、戦争の悲惨さを物語りだします。
被爆前の、イルミネーションが美しく煌びやかで、横幅のあるシンメトリーな美しい洋館の姿を知らない方は、ここを訪れる前に是非一度、写真をご覧になってみてください。
今の姿を目の当たりにした時に、きっと何倍もの衝撃を感じるはずです。
1966年、広島市は原爆ドームの「永久保存」を決定し、いく度かの募金活動と保存工事により、今日に至っています。
その間、アメリカの反対などもありましたが、世界文化遺産にも登録されました。
風雨にさらされる建造物の保存は非常に難しいものがありますが、平和な世の中が続くことを願い、この原爆ドームはいつまでも残してもらいたい建物のひとつです。
ピカドン・・・43秒後の惨事と黒い雨!
この歴史上、あってはならない大量殺戮という悲惨な出来事となった原爆投下は、1945年8月6日に起こりました。
早朝、広島市内には、警戒警報が発令されていました。
その警戒警報が解除された44分後の午前8時15分(実際は8時14分)、原爆投下用に改造された長距離爆撃機、「B29 エノラ・ゲイ(44-86292号)」が、広島上空に現れ、高度9600m(日本の記録では8500m)より、原爆が投下されました。
そして、その43秒後に、この原爆ドームから東へ約160m先にある、「島病院」の上空580mで、この原爆は炸裂しました。
原爆炸裂時の地表面の温度は、3000度とも4000度とも言われており、半径2km圏内の建物がすべて炎上し、2.5km付近の家屋まで倒壊したと言われています。
原爆炸裂時の模様から、当時の広島の人々は、この原爆を「ピカドン」と呼び、またこのピカドンは、後に語り草となった「死の灰」「黒い雨」を、廃墟と化した広島の町に降らせました。
当時のエノラ・ゲイの航空日誌には、「8時15分―原子爆弾投下。43秒後に閃光。衝撃で機体傾く。・・・巨大な原子雲」 「9時―原子雲が見える。高度12000m以上」の文字が記されていました。
今も残る、原爆の傷跡
広島に投下された原子爆弾「リトル・ボーイ」は、ウラニュウム235というもので、そのエネルギーの半分は「爆風」、35%は「熱」となり、その破壊力により、多くの人や建物を吹き飛ばし、炎上させました。
そして残りの15%が「放射線」で、この放射線は、生き残った多くの人々の健康を害し、後々まで苦しめることとなりました。
原爆による死者は、11万人とも14万人とも言われていますが、その多くは半径2km圏内にいた方でした。
その後も、被爆後数年経ってから、白血病やガンで亡くなる方が増え続け、この原爆投下による犠牲者の数は、正確には把握できない状態となりました。
今も尚、原爆の被爆が原因で、体が蝕まれ苦しんでいる方がおり、原爆の傷跡は消えていません。
戦争や原爆投下について、どう表現しどう伝えていくべきか・・・ということは、とても難しい問題であり、その見方も様々であれば、意見もまたいろいろです。
平和活動についても、人それぞれ、いろんな考え方や表現方法があると思います。
誰が正しく、どう書き記すことが正しいのか・・・ということは、一概には決めきれません。
ただ、この広島の地で起きた史実を知り、この地を訪れ、この原爆ドームを目の当たりにすることにより、そこからそれぞれの人が個々に何かを感じ、その想いをそれぞれの心の中に刻んでいければ・・・と思います。
原爆ドームに対して、こういう言葉は適切かどうかわかりませんが、終戦後、半世紀以上過ぎた現在でも、原爆ドームの存在は薄くなってきても、その何かを訴え続ける「輝き」は変わらないように思えます。
原爆ドームは、テレビや写真などで、誰でも一度は目にしている建物だと思いますが、広島の地を訪れ、改めてこの原爆ドームと向き合ってみませんか。
| ■ 原爆ドーム 〜 星★聖 の ひとこと 〜 |
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「原爆ドーム」の往時の華やかな姿を知った上で訪れてみてください! |
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